読書メモ – (日本人)

ここ最近、橘玲さんの本を立て続けに読んでいました(10冊購入して7・8冊読了)。橘さんの本は平たく言うと「生きるために必要なリテラシー」についてよく書かれてる気がします。文化的な話、科学・思想的な話、節税・投資などのお金の話など範囲が広いんですが、わりと内容が実用的でそんな事もあって連続して読んでしまってました。
ぼくの読書は途中で飛ばしたり斜め読みで大雑把に読んだりとても適当なんですが今回はせっかくなので大切に感じたキーワードなどメモしておきたいと思います。何冊分か分けて書いてく予定です。

「(日本人)」からの個人的メモです。

日本人の特徴は「世俗的」

「武士道」「伝統」などのイメー ジとは違って日本人の特徴的な価値観は世俗的な性格が強いところだと書いてます。イングルハートの価値観マップというのが出てきてこれがとても面白かったんですが、これは各国の価値観を調査したもので、縦軸に大衆の価値観(世俗的 vs 伝統的)をとり横軸に近代化の産業段階(生存 vs 自己表現)をとって世界各国をマップしています。その中で日本は縦軸は世俗的・合理的価値観がかなり強く、横軸はやや自己表現的価値を重んじるという位置にいます。際立っているのは縦軸の高さで、世俗的 =損得勘定を重視するのが際立った日本的性格となります。空気と水の話が例えとして分かりやすかったです。

日本には「空気=世間」のほかに、「水=世俗」という原理がある。「水を差す」とは、「空気の支配」に対して世俗の原理をぶつけることだ。「そんなことやったって、しょせん損するだけだ」といわれたとき、それまでの盛り上がっていた議論は水を差され、現実(世俗)に引き戻される。

「空気を読む」というのが日本的特性として挙げられる事が多いんですが、それだけではなくて損得勘定が働く余地がとても大きいのが日本人的と言うことでしょうか。空気という同調圧力は確かに大きいんですがこれは日本に限らずで、ただこれが全体として損と認識される事には向かってはいかないという事なのかもしれません。

日本人は、御利益のある神と自分の得になる権威しか認めない。

言われてみればそうかも…。他の国と比較して権威を嫌う傾向が強いのも日本人的な性格だそうです。確かにヨーロッパなど革命を経験した国では権威という言葉の受け取られ方も違いそうですね。

日本人の人間関係の核となるものはイエ

人間関係として比重が大きいものに血縁・地縁が挙げられますが、日本人は血縁・地縁とはまた異なる”場”としてのつながりであるイエを重視すると書いています(社縁とも言うそう)。イエというのはかつては磯野家とかフグタ家のイエで、今だと会社が日本人にとってのイエになります。人間は社会的な動物なので何かに属していないと生きていけないですが、その帰属意識としてたとえば中国・韓国であれば血縁を重視し、そこからハブられたら生きていけないと考える(中国は宗族もある?)。対して日本人は会社がイエなので、そこからハブられるのが何より恐怖だと考える、という事でした。サラリーマンの国なのでこれは分かりやすいかな…。単身赴任が成立するのは如何にも日本的で、海外では家族は分割不可能な単位として考えられるのに対し日本ではイエを重んじるためそれが成立してしまう、これも確かになーというところです。

イエは日本的な働き方を考える上で基本的な概念になると思います。たとえば解雇の難しさは日本の雇用の問題のひとつだと思いますが、このイエという日本的価値観が根底にあると考えると法的・制度的な話だけではない根深い問題だと理解できます。また、たとえば日本人は中国人の同僚の働き方が理解できないとよく聞きますが、そもそも会社に対する根底にある価値観に相違がある(むしろ日本人も特殊)と理解できて腹落ちする事が多かったです。労働の対価である給料も労働とその対価に対する報酬というより、会社にいる事・尽くす事に対する報酬という意味合いが強くこれもイエというキーワードから納得できる点があります。

日本人の能力主義に対する誤解

日本では能力主義はドライだという捉えられ方をされてますが、グローバルスタンダードな考え方として「能力以外で差別化する事が悪」である以上、能力主義にならざるを得ないという背景があります。なので、逆に能力主義でないほうが、性差別・年齢差別につながる事から差別的・偏見的になりグローバルスタンダードから外れているという事になります。事実海外進出した日本企業がよく失敗するのはこの点についてだそうです。能力主義という言葉の日本的なイメージに引きづられがちなのでハッとしました。

日本の責任の構造

社会がゆたかになるにつれて、「無限責任(=無責任)」から「連帯責任」、そして「自己責任」へと責任のとり方は”進歩”していく。だが、日本では契約の絶対性は全く理解されず、法は融通無碍な便宜的なもの(努力目標)のままだった。

責任の段階として社会の成熟度によって、「無限責任」「連帯責任」「自己責任」というものが定義されています。現代的な意味での責任は個人が取りうるものになるので有限責任が前提です。ただ日本では西洋と違って革命のようなプロセスを経てないからか契約よりもムラ社会的な便宜がそのまま優先されてきてるのでルールの責任範囲が曖昧になり結果として逆に個人では責任の取りえない無限責任の意味合いを帯びてしまいます。そして、それは構造的に誰も責任をとらない社会を生んでしまう。

呪術的な無限責任と書かれてたりもするんですが、これは今の日本でたしかに頷けるところがあって、責任の範囲が契約上曖昧であるが故にともすると社会的抹殺など”汚れ”を持った個人に対する社会的な暴力が強くなっているという気もします。原発事故を起こした東電社員への世間の風当たりの強さが例に挙げられてます。

ちなみにアメリカだと東電社員叩きみたいなのは起きないんだろうか、誰かアメリカの人に聞いてみたい…。ただあっても日本のほうがこういうのは傾向的に強いんでしょうね。

日本はグローバルスタンダードになれるか?

それはかなり難しいだろうと書かれています。理由としては日本では「他者」の存在が希薄だからです。これには納得。移民政策が進んだらまた話は違うのかもしれませんが。